新撰組局長である近藤勇の持っていた虎徹の刀は、真贋の決着がついていません。対して、土方歳三の持っていた刀は、和泉守兼定と分かっています。土方歳三の持っていた刀については、近藤が武州日野宿の名主佐藤彦五郎に宛てた手紙によって明らかになったようです。その手紙には、池田屋騒動で土方歳三が無事であったことを記した上で、使っていた刀が「和泉守兼定(二尺八寸)、脇差・堀川国広(一尺九寸五分)」という刀ということも伝えています。刀鍛冶の兼定の始祖は、刀工でありながら「守」という字を受領した初めの人であったと言われています。室町時代の末期からは奥州会津に居住をして、芦名盛氏に仕えたことを始祖として、そこから十一代続いていったと言われています。四代目の藤原兼定の鍛えた刀(二尺九分)は、1675年に土津神社に奉納されたそうです。藩祖の保科正之をまつる神社であり、兼定が会津藩の抱えていた鍛冶であったことが分かります。1862年に、会津藩主であった松平容保(かたもり)が入京すると共に、十一代目の兼定も後を追って上洛しました。十一代目の兼定は、1837年(天保八年)城下浄光寺街に生まれて、16歳という若さで、藩命によって十代兼定の代作を行い、見事に鍛刀を行いきったといいます。上洛した後は、西洞院竹屋町の鍛冶場ですぐに仕事を開始しました。やがて新撰組が会津の預かりとなってから、作刀が追いつかないほどになったそうです。現在土方家に伝えられている和泉守兼定は、刃渡りが二尺三寸五分、慶応三年の裏銘がありますが、近藤勇が手紙に書いていた大きさとは異なっています。和泉守兼定を二振所持していたのではないかという説もあるそうで、明らかにはなっていません。 |