江戸幕府開闢以来260余年、泰平の世も終わりが近い幕末期。全国の諸処で佐幕派と勤王派の血で血を洗う事件が勃発していた。中でも江戸から政局の中心に返り咲いた京都では、倒幕を画策する尊王攘夷派による天誅という名の暗殺が頻繁していた。「肥後の河上彦斎」「薩摩の田中新兵衛」「薩摩の中村半次郎」そして、本項で取り上げる「土佐の岡田以蔵」四人をもって「幕末4大人斬り」と称されている。文久3年8月18日の政変で尊王攘夷派の京都における劣勢が確定的となり、「土佐勤王党」も土佐に帰郷せざるを得なかった。土佐に戻った「土佐勤王党」を待ち受けていたのは、先代藩主にして土佐の最大権力者山内容堂の厳しい弾圧と処刑の嵐だった。女と酒に溺れ自堕落な暮らしをした挙句に、無宿者として幕吏の手に落ちて土佐へ送還された。土佐での「土佐勤王党」への厳しい詮議は以蔵の身にも課された。これまでの暗殺の数々を白状させられ斬首刑に処せられた。享年28歳。以蔵の愛刀は、「肥前忠広」。これは同じ土佐藩の坂本龍馬から贈られたといわれている。