上泉信綱

上泉信綱の詳細は不明な部分が多い。上州大胡城主上泉秀綱の一子であるといわれている。弘治元年、大胡城は、相州小田原後北条氏康によって落城、かろうじて逃げ落ちた信綱は、箕輪城主、猛将で名高い長野業正に仕官した。この間に、愛洲久忠が創始した「陰流」を学び、遂には自らで創意工夫をした「新陰流」を編み出した。長野家は、武田信玄によって滅亡してしまうが、信綱の才を惜しんだ信玄は、幾度となく家臣にしようと働きかけたが信綱は固辞した。固辞した信綱は弟子と共に武者修行の旅にでた。武者修行中も信綱の高名を知る武芸者の挑戦が後を絶たなかった。柳生宗厳も挑戦者の一人だった。柳生石舟斎宗厳でさえ、信綱でなく、弟子の疋田景兼にあしらわれる始末であった。すぐさま、宗厳は弟子入りを志願した。「柳生新陰流」創設の端緒となる出来事といえる。上泉信綱が、今に残した大きな功績の一つとして、竹を割って束ねた「袋竹刀」の考案がある。安全に稽古ができる現代の竹刀に繋がる物である。