日本刀鑑定の達人たち

「目が利く」とは、今でも使われている言葉ですが、日本刀の秘伝書として最も古い『銘尽』(観智院本銘尽という。重文・国会図書館蔵)には、後鳥羽上皇は、毎月の番鍛冶として十二名の名工を京と備前・備中から選び、院中に招いて鍛刀させたと伝えています。

その折、上皇自らも焼入れをされ、それを上皇の御手打ち、また茎に菊の紋章を刻んだので菊御作と呼ばれ、長く珍重されてきたと言われています。

平安末期から鎌倉時代初期に名工が輩出したということは、その刀剣の良し悪しを判断する優れた目利きが居たからだと言われています。「道の者」とは、特殊な能力を持った職人の意で、刀を作る人も、刀の目利きする人をも意味していたようです。『銘尽』には、幾つかの目利きの人の秘伝のような書き置きがまとめられ、その中で、正和五年を刀工の年代を数える基準にしています。このことから『正和銘尽』とも呼ばれ、鎌倉時代の末に書かれたものと見られています。

室町時代は多くの目利きが生まれたとされていますが、大目利き(大鑑識家)と言われていた人は宇都宮三河入道という人で、足利将軍義満に仕えたと伝えられています。

現代まで、日本刀の多くの鑑定本は、『秘伝抄』によっているようです。いわば鑑定書の底本です。「木屋」という屋号は現在、日本橋の刃物屋に見ることができますが、江戸時代には幕府から日本刀の研師として禄を受けていたと伝えられています。久能山東照宮に伝わる宝刀の鞘には、「木屋」が研磨したことが記されているようです。

『秘伝抄』の最初を飾る刀工は「天国」です。聖武天皇は実在の天皇ですが、天国は神代の名工とも伝えられます。しかし、桓武天皇の小烏丸の剣は天国の作とも伝えられます。天国は『平家物語」の「剣の巻」に見えていますので、宇都宮三河入道の『秘伝抄』の最初が天国で始まるのは、その伝承を受けているものと思われます。

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