日本刀の鑑定もしたと言われている能阿弥

能阿弥(一三九七~一四七一)は日本刀・刀剣の鑑定もしたようで、『正銘尽』という写本が残っています。能阿弥の死後十一年を経た文明十五年三月、難波行豊が書写したことと伝えられています。「天国」から始まる刀鍛治の順序や後鳥羽院御番鍛治については、「銘尽』と似ていますから、伝統的鑑定を踏襲していたのではないかと考えられます。また、そこには評価価格が記載されていることです。

『正銘尽』に書かれた評価価格ですが、織物の二反一疋の単位で示されています。最高値が万疋で、御物万疋、御物五千疋、五千疋、三千疋、二千疋、千五百疋、千疋の七段階で評価されていたとされています。

御物万疋は室町幕府の所蔵品ということで、これには三条宗近、来国行、栗田口国綱・藤四郎吉光、舞草の猛房、古備前の助平・友成・包平、豊後の定秀・行平・正恒(行平の子)、伯替の安網・真守の十三工が名を連ねています。次いで御物五千疋の栗田口の国友・久国が加わって十五人の名工たち。多くは平安時代末期から鎌倉初期までの鍛冶で、鎌倉中期が来国行と粟田口吉光の二工だけのようです。

京都の三条・来・栗田口の三流派が高く評価され、それに遠い国の奥州舞草と九州豊後の彦山の修験道との関係が深い定秀・行平、さらに刀剣製作に優位な立地条件をもつ備前の諸工に伯香の安網一門が入っていたそうです。この中に、相州の一門は見られません。

御物以外の刀工では、五千疋のグループに相模の正宗・貞宗・広光の三工が挙げられています。

次いで、三千疋のグループには、大和の安則、山城の来国次、相模の助真、備前の高包・吉平・長船の長光、そして筑紫の左とあります。長船の長光が頭角を現しています。

二千疋には、栗田口の有国・則園、正宗一門の則重一・行光、備前一文字の名工吉房・則房、長船光忠が登場します。

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